エディブル・エデュケーターに必要な資質を考える

「私もガーデンティーチャーになりたいのですが」
「うちでもエディブル・スクールヤードを始めたいです」
「うちの地域の耕作放棄地でやってみたい」
 
これまでに、たくさんのご要望や質問が当会へ届いています。この魅力的な菜園教育への期待が大きいことがわかります。
 
ここからは、社会教育士、&Garden の田辺綾子 個人としての見解を記したいと思います。長文になります。

ガーデンティーチャーや、エディブルエデュケーターになるためには、「教育」「環境」「農業」など複数の分野を習得する必要があると考えています。

◎植物や農業、食のことを横断的に知っていること

植物といっても、そこには、植物の生理、生態、土壌など、様々な分野があります。また文化や芸術的な見地から植物を見る園芸学も。
水やり一つとってもコツがあり、園芸の世界では、習得するのに3年かかるといわれています。
 
有名な園芸家ターシャ・テューダーは、自分が認めた人にしか、草取りはさせませんでした。抜くべき草と、抜かずに残しておきたい草の区別がつく人のみが、彼女の庭で一緒に作業をすることを許されていました。
 
また、食や流通までも網羅しておくことは、日々の暮らしと農と食をつないで自分事として捉えてもらうために必要なことだと思います。

◎教育者としてのニュートラルな姿勢を堅持できるか

昨今では、遺伝子組み換え種子や種子法、種苗法の問題、オーガニック給食の話題など、食に対するムーブメントも広がっていますが、これに対して、私個人は賛同も反対も表明していません。

 

なぜなら、その両者の考え方には、それぞれ政治的・思想的な背景が強く影を落としており、両者の対立の構図に子ども達を巻き込むべきではないと考えているからです。

 

教育は、常に政治的イデオロギーから距離を取り、ニュートラルでフラットな立場で携わるべきというのが私の一貫した信条であり、公教育の場に携わるならなおさらです。

 
遺伝子組み換え種子の問題など今の食がいかに危険かという風潮も、子ども達に伝えることはありません。我が子を思う親心につけ入り、ことさらに不安を煽る言論はいかがなものでしょうか。

 

個人的には、これは扇動や洗脳に近い行為だとすら感じています。これらはいずれ、自分達で培った選択肢の引き出しの中から子ども達自身が自分の頭で考え、自分で選択することだと思います。

 

このため、私はガーデンでは「自然栽培」という手法を主に採り入れていますが、これはあくまでベースであり、農薬や肥料を使用する「慣行栽培」も「有機栽培」も、それぞれの特徴(長所/短所)を尊重し、必要に応じて使い分けています。

 

「慣行栽培」「有機栽培」「自然栽培」は地続きのグラデーションであり、各々が大切にしている手法や考え方はていねいに「分別」されるべきで、「どれも同じ」として十把一絡げに括ることは、「差別」するのと同じくらい乱暴な行為です。「分別」と「差別」は違います。

 

これは、自然栽培を追及してきたからこそ辿り着いた境地です。実際に、現場で汗する生産農家の方々は、どんな栽培方法であろうと関係なく、皆さん仲良く情報交換をしていますし、一人で「慣行栽培」「有機栽培」「自然栽培」を使い分けて並行して実践する農家もいます。そもそも壁など初めからないのです。

 

「農法で対立しないで」と言っている人こそ、ありもしない壁をあると思い込み、分断を生んでいることに自覚がありません。あっても自分の主義主張を今さら翻すことができず、都合のよい情報を集めて理論武装しているにすぎないのです。

 

現場を知らない人達の〝声の大きさ〟に惑わされないでいただきたいと思います。このような分断の世界からそろそろ脱却しましょう。

 

◎指導力を持っていること

話を「教育」に戻します。
子どもといっても、年齢や発達段階によって伝え方は変わってきます。
 
子どもの心理をつかみながらの語彙の選び方、子ども達を飽きさせずに話をする求心力、とはいえ、あまり管理し過ぎず自由でリラックスした雰囲気づくりができるような包容力、何か失敗が起きてもそれを肯定的に捉え直す機転やユーモアも必要です。
 
私は、その日集まる子ども達の表情や動きを観察して、どんな声のトーンで、どんな大きさで、どんなスピードで 話をするか、カリキュラムを組んでいても、咄嗟に判断しアドリブでどんどん変えていくことにしています。でも、着地点はできるだけブレさせない。
そして、プログラムの時間配分も把握する。
専門分野を知っているのはもちろんのこと、その上で、どれだけ指導力を兼ね備えているか、もしくは、その研鑽を積む覚悟がどれだけあるか。情熱や想いがあるのは当たり前のことで、それを裏付けする技術を積み続け、心技の両輪を兼ね備えること。ここが非常に重要だと考えています。
 
それだけ、子ども達に教えるというのは、責任の重い尊い仕事だと思います。
 
そうした意味で、ただ近所の農家の畑で体験するのも、管理栄養士の先生に栄養学のお話を聞くのも、エディブル教育は違っており、全人教育を行える指導者の育成は急がれると感じています。
 私自身もまた、日々アンテナを張って勉強しています。2020年に改定された新学習要領をきっかけに教育改革は進み、GIGAスクール構想、STEAM教育、アクティブラーニング、インクルーシブ教育、プログラミング教育、etc、、、今学校で何が起きているのかを追いかけていたら、いくら時間があっても足りないくらいです。
 
書籍『食育菜園 エディブル・スクールヤード マーティン・ルーサー・キングJr. 中学校の挑戦』は、何周も読んでボロボロになってきました。
 
お問合せくださる方の中には、残念ながらこの本を読んでいない人も少なくありません。少々辛辣ですが、それはエディブル・エデュケーションの入口にも立っていないことを意味していると思います。
 

◎前向きな柔軟性

あとは、学校という聖域に外部から入っていくわけですから、教育のプロである学校の先生方に認めてもらえるような情熱と柔軟性のある交渉力も必要になってくるでしょう。
学校の先生というのは、大学の教職課程内で心理学や指導学を学び、教育実習を行い、教員免許を取得し、さらに採用試験に合格して教師となります。教師が国家資格となっているのはそれだけ、教育を行うことに重責があるからです。
ここへのリスペクトなく、なんのトレーニングも受けていない者が感性や感覚のみで子ども達へなんらかの「教育」を提供することは憚られます。
 
「今の日本の教育は‥」と批判的な声を聞くことが多いですが、誠実で力をお持ちの先生はまだまだたくさんいらっしゃいます。子ども達のことを毎日考え、休みの日も自宅でも、カリキュラムデザインやクラス運営のことが頭から離れない・・そんな先生を疲弊させてはなりません。
十把一絡げにして揚げ足取りばかりしていたのでは、学校と地域との心通う協働はできないし、そうした大人の様子を子ども達は日々見て、吸収していますから、子ども達に大人のどんな姿を見せたいかは、考えたいものです。
 
「義務教育」という名の下で、所得や各家庭の事情で排除されることなく、入試や面接という形で選別されることもなく、誰一人残らず教科書が配られ教育を受けることのできる日本の公教育は、本来ありがたいことのはずです。ですので、当教室はフリースクールやオルタナティブスクールの類をつくろうとしているのではなく、あくまでも従来の学校をお支えできる、地域サポーターの立場を守っています。

こうしてみると、エディブルのエデュケーターになるって大変だなぁ‥と思いそうになりますが、じつのところ、大変やりがいのある仕事です。何より、活き活きとガーデンで過ごす子どもたちの溢れる笑顔が後押しをしてくれます。
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お問合せが多いため、私の考えていることの一端をここへまとめてお伝えする事で、回答に代えさせていただくことにしました。いかがでしょうか。一緒に学んでいける本気の仲間が増えますように。
&Garden 主宰
エディブル・エデュケーション岡山研究会 代表
田辺 綾子